山口市内の明治維新関連の史跡をご紹介いたします。
山口市のシンボル的存在、国宝「五重塔」が鎮座する瑠璃光寺。守護大名大内氏ゆかりの史跡だが、境内には毛利敬親らが眠る「毛利家墓所」があり、・・・
豪商・安部家は藩主毛利氏の参勤交代時における山口の本陣として使用され、その一角に離れとして存在したのが枕流亭・・・
山口への藩庁移転の際に、毛利敬親によって「山口屋形」の敷地内に建てられた茶室で、その名は、現山口県庁舎が建てられる以前、・・・
毛利氏13代当主敬親と妙子夫人、最後の藩主となる次代14代元徳と安子夫人、さらにその子の元昭と美佐子夫人が眠り、「毛利家歴代諸霊」・・・
毛利元就の菩提寺で、墓地には井上馨の分霊塔も建立。近年は犬のマル住職が話題をふりまく。維新志士ゆかりの品などを・・・
戊辰戦争の緒戦、1868(慶応4)年の鳥羽・伏見の戦いにおいて長州・薩摩両藩を中心とする新政府軍の前線に掲げられ、旧幕府側に・・・
1864(元治元)年、萩から山口への藩庁移転の際に建てられた「山口政事堂」の正門で県の重要文化財。周囲は、当時としては最新となる・・・
山口への藩庁移転時、大村益次郎はここ普門寺境内にある観音堂を宿舎としていた。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により長州藩の上士(上級藩士)・・・
幕末の長州藩において正義派の核として活躍し、さらに明治新政府においては日本の近代化に奔走した木戸孝允を祀る。神社は山口市糸米にあった・・・
現在の下竪小路、および大殿大路一帯で醤油醸造を営んでいた萬代家は、三代目・利兵衛英備(ひでのぶ)によって最盛期を迎える。その財をもって、・・・
1864(元治元)年9月25日、井上馨(この時は聞多)が俗論派藩士に襲撃され、瀕死の重傷を負った地点で、それを示す石碑が建立されている・・・
観光客にとっては湯田温泉の玄関的な空間で、地域においては子どものころからの憩いの場として思い出に刻み込む市民も少なくない・・・
毛利藩の膳部職(台所の責任者)を任されていた斉藤幸兵衛が、料亭「祇園菜香亭」として1877(明治10)年に創業。「菜香亭」の名称は井上馨の命名で、・・・
鋳銭司出身で「維新の十傑」の一人にも数えられる大村益次郎を祀る。明治維新後、益次郎は、軍制改革に尽力する中で1869年(明治2)年9月に・・・
創業以来340年の歴史を持ち、日本庭園は国の登録記念物に登録されており、また館内や庭園には明治維新の史跡が現存しています。・・・
大谷家は、現在の山口市阿東の生雲中心部にあり代々庄屋を務めた豪農で、名字帯刀が許されていた。9代大谷忠兵衛、その子10代久七ともに・・・
1863(文久3)年の山口への藩庁移転後、今八幡宮の社務所には毎日のように若い藩士たちが集まるようになった。彼らが通ったとされる門が現在も・・・
祭神は毛利敬親で、戦国時代に西国有数の大大名へと毛利氏をのしあげた毛利元就を祭神とする豊栄神社(1871年に現在地へ遷座)に隣接。・・・
毛利氏の祖、元就を祭神とする神社。萩城内にあったものを、明治2年(1869)に山口に移したものです・・・
元帥陸軍大将・伯爵。長州藩士宇田多正輔の三男として生まれ、のちに寺内勘右衛門の養子となる。戊辰戦争に初陣し、明治年陸軍少尉・・・
山口市中心商店街西側入り口近くにある禅寺。その昔、大内義興公の病を払ったとのことで、慈観堂という名前から1522年に長寿寺という名前になる・・・
吉田松陰とともに勤王運動に尽くした中谷正亮の墓がある寺。正亮は松陰の死後、松下村塾を主となって運営した人物・・・
藩士上田鳳陽は時代の進展を見て、後の山口明倫館となる山口講堂を創立しました。この地には歩兵・騎馬・砲兵の三兵塾・・・
高杉晋作が奇兵隊を創設すると、又兵衛は遊撃隊を組織し互いに連携して国事にあたりました・・・
明治33年(1900)亀山の頂上を公園化し、毛利敬親らの銅像6基が建てられました。銅像は太平洋戦争中に金属回収のため供出・・・