井上馨遭難の碑
藩内で勢力を増す俗論派に挑むも凶刃に倒された井上馨
1864(元治元)年9月25日、井上馨(この時は聞多)が俗論派藩士に襲撃され、瀕死の重傷を負った地点で、それを示す石碑が建立されている。当時、ここより少し先に袖解橋という橋があったことから「袖解橋の変」といわれている。
第一次長州征伐による幕府軍が長州へと迫る中、藩庁では毛利敬親・元徳親子のもと御前会議が開かれた。幕府に恭順すべしとする俗論派が主導権を握る中で、井上馨(当時は聞多)は、形のみの恭順としていつでも反撃できるように武力を増強させるべき(武備恭順)と強く主張した。俗論派の藩士たちに危険視され、その夜、湯田への帰り道、中井栄次郎、周布藤吾、財満新三郎らに襲撃され背中や頭部に深手を負う。瀕死の井上は、近隣の農夫によって自宅へと運ばれ、兄に介錯を頼むほどの重傷であったが、友人であり医師でもあった所郁太郎が直ちに駆けつけ、50針以上にも及ぶ大手術を敢行。懸命な治療の甲斐あって見事に回復した。
しかしながら、この事件と時を同じくして、正義派のリーダー・周布政之助は藩を危機に直面させた自責の念から、翌26日朝に自刃し、身の危険を察知した高杉晋作は九州に渡り潜伏。俗論派が藩政を握り、藩庁もいったん萩へと戻されることとなった。
所在地 | 山口市中園町 |
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入場時間 | - |
入場料金 | 無料 |
アクセス | JR山口線湯田温泉駅より徒歩約20分 山口市コミュニティバス「吉敷・湯田ルート(旧道・朝倉まわり)」・28番中讃井バス停すぐ |
定休日 | - |
駐車場 | なし |