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山口に政庁を移し、居を構えた大内氏。大内文化が香り、ゆったりと時が流れる街。

山口の基礎を築いた大内氏

大内氏のはじまり

大内氏のはじまりは、百済国聖明王の第3王子・琳聖太子と伝えられ、推古天皇の19年、周防国、(今の防府市)に着岸し聖徳太子より周防国大内県を賜り、多々良を氏としたと言われています。「大内」と称しはじめたのは平安時代、16代盛房(もりふさ)のころ、本拠としていた所が「大内」という地名だったことが由来とされています。
代々周防権介として働き、源平合戦では源氏に味方、戦況を有利に導きました。

「西の京」としての大内文化のはじまり

長門・周防国の守護に任じられた24代大内弘世(おおうちひろよ)は1360年ころ政庁を山口に移し、京に模した街づくりをはじめたと言われています。将軍である足利義詮に会うため京に上った弘世は京の高い文化や情緒に感銘を受け、山口の一の坂川を京の鴨川にみたて、以後約200年間、歴代当主も弘世に倣った街づくりを行なったとされています。

>>関連リンク 大内文化まちづくり『甦れ歴史空間』

大内氏関連年表はこちら

大内氏の面影が残る山口市

京を模した街づくりをし、栄華を極めた「やまぐち」

時代背景・年表
一の坂川周辺と大内弘世(ひろよ/24代)
一の坂川

周防・長門の守護となった24代大内弘世は、京に憧れを抱き、京の都に模した街づくりをするため、京都盆地に酷似した山口に本拠を移したといわれています。中央に本拠を置き、街を縦横に区画、街路名を大路・小路と京風にしました。
一の坂川は本拠の近くを流れ、京の鴨川に見たてられた川です。
初夏の一の坂川はゲンジボタルが舞いますが、これは24代弘世が京から姫君を妻に迎えたとき、京の都を懐かしみ寂しがるのでそれを慰めようと、宇治のゲンジボタルを取り寄せ一の坂川に放したのが土着したものと伝えられています。春は桜が咲き誇り、四季折々の表情を見せてくれる一の坂川は現在でも市民に親しまれる散策コースとなっています。

国宝 瑠璃光寺五重塔 大内義弘(よしひろ/25代)の供養塔
国宝 瑠璃光寺五重塔

応永の乱(大内氏の勢力を恐れた将軍義満との間で泉州堺に於いて起こった戦乱)で敗死した25代義弘の菩提を弔うため、弟の26代盛見が建立を計画し、完成は嘉吉2年(1442年)ころといわれる、大内氏の文化遺構です。
その美しさは日本三名塔の一つに数えられ、全国に現存する五重塔の中で10番目に古いものです。
室町時代中期におけるもっとも秀でた建造物と評され、大内文化の最高傑作として国宝に指定されています。高さは、31.2m、屋根は桧皮葺です。
日没から夜間は五重塔がライトアップされています。

雪舟と大内教弘(のりひろ/28代)・政弘(まさひろ/29代)
雪舟庭

雪舟(せっしゅう)は室町時代に活動した水墨画家・禅僧で、大内氏の船で明国に渡るため28代教弘のころ山口を訪れました。その後、明国において禅学・画技を修めて帰国します。応仁の乱で荒廃した京を避け、大内氏の庇護のもと山口天花の雲谷庵を拠点に活動をしました。
周防をはじめ、豊後や石見でも創作活動を行なっています。
大内文化を代表する遺構の一つである常栄寺庭園は29代政弘が雪舟に築庭させたと伝えられています。この庭は庭を囲む周辺三方の山林と共に、国の史跡及び名勝に指定され、水墨画の世界の具現化といえます。
29代政弘は戦乱中(応仁の乱)も公卿や学者と多く交流し、雪舟をはじめ多くの文化人を招いて、文化の興隆に尽力しました。

サビエルと大内義隆(よしたか/31代)
サビエル記念聖堂

キリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・サビエルに、31代義隆は日本で最初に布教の許可を与えました。その拠点として大道寺も与えます。
その後サビエルは、大内氏の重臣陶氏の反乱で義隆が自刃に追い込まれる直前に、大友氏の招きで山口を離れ、危うく難を逃れます。その後、目指していた中国入境途中で病に倒れ、中国・上川島でこの世を去りました。
一方、大道寺はサビエルと共に行動していた宣教師トルレスにより建て直され、日本最初のキリスト教教会となり、日本最初のクリスマス(降誕祭のミサ)もここで行われました。
現在山口市はスペインのフランス国境に近いナバラ州パンプローナ市と姉妹都市になっています。パンプローナ市はサビエルの出生地で、サビエルと義隆のとりもつ縁が今も続いています。

龍福寺と大内義隆(よしたか/31代)
龍福寺

龍福寺は、毛利隆元がかつての主君31代義隆の菩提寺として、1557年に大内氏館跡(現在地)に再興した寺です。しかし、明治14年の火災で、禅堂と山門を残し焼失。そこで再建に際し、大内氏の氏寺であった興隆寺の本堂を移築したのが今の本堂で、国の重要文化財に指定されています。
(平成23年に、6年に渡る本堂修復工事が完了し、修理前の桟瓦葺きの屋根を解体調査による痕跡や文書等から桧皮葺きに復元しました。)

かつて龍福寺は白石の地にあり、18代満盛(みつもり)が創建した臨済宗の古刹で、宝珠山瑞雲寺といいました。1336年、23代弘直(ひろなお)が再建して弘直の菩提寺となり、28代教弘(のりひろ)の時代に、臨済宗を曹洞宗に改めたとき、瑞雲山龍福寺と改称しました。そして31代義隆のとき、後奈良天皇に奏請して勅願寺とし、寺を重建しましたが、1551年の天文の乱(大内氏の重臣陶氏の反乱で義隆は自刃)で焼失、その後、毛利隆元が再興します。

24代・弘世〜31代・義隆までの略系図

■大内氏勢力図(括弧年数は家督相続)

大内氏勢力図

大内文化が色濃く香る街、山口

山口市内には大内氏ゆかりの神社仏閣が数多く佇み、技や風習も大切に受け継がれています。

今八幡宮

洞春寺観音堂・山門(重要文化財)

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大内持盛の菩提寺、滝の観音寺を移建したもので創建は1430年。

今八幡宮本殿・拝殿・楼門(重要文化財)

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29代政弘が山口の鎮守と定めた、大内氏崇敬の神社。

古熊神社本殿・拝殿(重要文化財)

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24代弘世が京都の北野天神を勧請して建立した古社。

八坂神社本殿(重要文化財)

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24代弘世が京都より勧請したもので、社殿は30代義興が再建したときのもの。

山口大神宮

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30代義興が伊勢から神霊を勧請して創建した古社。

清水寺

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観音堂は29代政弘が建てたといわれ、山門には金剛力士像が安置されています。

乗福寺(じょうふくじ)

22代重弘が建立し、没後重弘の菩提寺となりました。
また、琳聖太子の供養塔、そして、大内弘世の墓が祀られています。
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興隆寺(こうりゅうじ)・銅鐘(重要文化財)

大内氏の氏寺として栄えました。
義隆寄進の巨大な梵鐘は、大内氏の栄華と勢力を物語ります。
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朝倉八幡宮(あさくらはちまんぐう)

859年宇佐神宮を勧請。1502年義興は神霊を今八幡宮に迎え祀り、旧地も祭祀をさせ ました。
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仁壁神社(にかべじんじゃ)

古来周防三の宮と呼ばれ、大内家では8月の大祭に当主自ら参拝しました。
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赤田神社(あかだじんじゃ)

古来周防四の宮と呼ばれ、717年創建と伝わっています。31代義隆が社殿を再建しました。
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朝田神社(あさだじんじゃ)

古来周防五の宮と呼ばれ、30代義興が戦勝祈願の五社詣で神馬と神楽を奉納しました。
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泰雲寺(たいうんじ)(もと闢雲寺)

26代盛見が創建しました。小早川隆景の菩提寺となり改称しました。
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神福寺(じんぷくじ)(もと神光寺)

将軍足利義稙が義興を頼ってきた際、ここを9年間居所としました。
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山口七夕ちょうちんまつり

山口七夕ちょうちんまつり

日本三大火祭りの1つとしても知られる山口七夕ちょうちんまつり。祖先を祀った大内氏の盆ちょうちんがいつしか庶民にの間に広まった幻想的なお祭りです。

山口祇園祭「鷺の舞神事」

山口祇園祭「鷺の舞神事」

24代弘世が京より勧請した祗園社(今の八坂神社)の室町時代より続く山口の代表的な祭礼。京都の祗園社では既に途絶え、現在では行なわれていません。

大内塗り

大内塗り

山口に伝わる漆工芸で、古くは室町時代対朝鮮、対明交易の主要な輸出品でした。その後も技術改良されながら受け継がれ、山口を代表する工芸品になりました。

山口外郎

山口外郎

外郎はもともと足利義満の時代に元より薬として入って来ました。その後、「外郎餅」として全国に広まり、山口には大内時代に伝わって来たと言われています。

コラムcolumn

大内御膳

大内氏の宴を再現して

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監修 食文化研究家 江後迪子

明応9年(1500)、室町幕府の第10代将軍だった足利義稙が山口の大内義興を訪問したのは、細川政元によって将軍職を追放された間のことだったが、そのときの大内氏側のもてなしの記録が『明応9年3月5日将軍御成雑掌注文』として残されている。大内氏は、実際は前将軍であったにもかかわらず、表題に将軍御成とあるように、現職の将軍を迎えるような歓待ぶりだった。
「御成り」とは宮家や摂家、将軍などが家臣の家を訪ねることをいい、公式行事としての御成りは室町時代以降に行われ、もっとも盛んだったのは1400~1500年にかけてで、たとえば足利義持が武家へ御成りになった回数は35回にも及んだ。
大内氏がもてなした献立は、献立の詳細が記録されているものではもっとも豪華なものである。初献にはじまり二十五献と供御、御台をふくめて全部で三十二のお膳だった。それだけのもてなしができたのは、大内氏が対明貿易を背景に財力も大きく強力な大名だったからである。そして、多くの御成りの記録が京都で行われたのに対し、大内氏のもてなしは地方都市山口の記録である点がひとつの特徴といえる。
献立の再現にあたって苦労した点は、まず素材集めだった。全国各地から集められた素材や現在では食用とされていない鶴やこうのとり、いるか、鮒など、また1500年当時無かったしょうゆ、砂糖、寒天など、さらに実際に行われたのが旧暦の3月すなわち現在の4月で、季節的に手に入れにくいものがあったこと、調理法が不明なものなどがあったが、可能なかぎりの再現を試みることとした。

 
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