西暦 | 大内氏関連事項 | 国内事情 |
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飛鳥時代 | ||
611 | 大内氏の祖、百済の琳聖太子が来朝したと伝えられる | (593)聖徳太子摂政となる |
平安時代 | ||
1152 | この頃から大内氏は大内村を中心に勢力を伸ばしはじめる | (1167)平清盛、太政大臣となる |
1183 | 源平合戦に源氏に味方し功績をあげる | (1180)源頼朝、挙兵 (1185)平氏滅亡 |
鎌倉時代 | ||
1206 | 18代満盛が瑞雲寺を建立 | (1192)頼朝、征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く |
1254 | 円政寺の鰐口銘にはじめて山口の文字を見る | (1221)承久の変 (1232)貞永式目制定 |
1281 | 20代弘貞が弘安の役に出陣 | (1274)文永の役 (1281)弘安の役 |
1318 | 22代重弘が東大寺の国務と対立、抗争する | (1333)鎌倉幕府滅亡 |
1334 | 23代弘幸は北条方に味方する | (1334)建武の新政はじまる |
室町時代(南北朝時代) | ||
1352 | 24代弘世、家督継承 | (1338)足利尊氏征夷大将軍に・室町幕府成立 |
1358 | 弘世、周防・長門両国を統一 | |
1360 | 弘世、この頃山口に居館を移し、京に模した街造りをはじめる | |
1369 | 弘世、八坂神社創建 | |
1373 | 弘世、古熊神社創建 | |
1379 | 義弘、はじめて朝鮮王朝との交易をはじめる | |
1380 | 25代義弘、家督継承 | |
室町時代 | ||
1392 | 義弘が南北朝の和議を周旋し、南北が合一。この頃、大内氏の勢力は益々増大 | (1394)足利義満が太政大臣となる |
1399 | 義弘、将軍義満に対し挙兵。泉州堺で敗死。26代盛見、家督継承 | (1399)応永の乱 (1401)第1回遣明船 (1404)勘合貿易はじまる |
1431 | 盛見、九州深江で少弐・大友の軍と戦い敗死。27代持世、家督継承 | |
1441 | 持世が嘉吉の乱に巻き込まれ死亡。28代教弘、家督相続 | (1441)嘉吉の乱 |
1442 | 五重塔竣工 | |
1461 | 画僧雪舟が山口に。教弘はこの頃築山館を建てる | |
1465 | 教弘、管領細川氏と戦い、伊予で病死。29代政弘、家督相続 | |
室町時代(戦国時代) | ||
1467 | 政弘、応仁・文明の乱で山名方に味方して東上、約11年間京都で戦う | (1467〜77)応仁・文明の乱 (1467)雪舟渡明 |
1480 | 政弘、連歌師宗祇など文化人を数多く山口に招く | (1490)義稙、足利将軍となる |
1495 | 政弘病没。30代義興、家督継承 | |
1496 | 義興、筑前で少弐氏を破る | |
1500 | 義興、細川氏に追われた前将軍足利義稙を山口神光寺に招く | (1505)管領細川・畠山両氏の合戦 |
1507 | 義興、義稙を奉じ、将軍義澄を追い義稙を再度将軍とし、これを補佐。天下の実力者として11年間幕政を左右する | |
1518 | 義興、京より山口へ戻る | (1516)幕府、大内氏に遣明船を管理させる |
1520 | 義興、高嶺麓に社を造営し、伊勢内宮外宮を勧請 | |
1528 | 義興、病没。31代義隆、家督継承 | |
1534 | 義隆、太宰大弐となり昇殿を許される | |
1543 | 義隆、出雲で尼子晴久との戦いで大敗。以後、文人的生活に耽る。西の京として山口は繁栄の極に達す | (1543)ポルトガル船、種子島に漂着、鉄砲を伝える |
1550 | サビエル山口へ。キリスト教を布教 | (1549)サビエル鹿児島に来航、キリスト教を伝える |
1551 | 重臣陶晴賢の謀反により、義隆は深川大寧寺で自刃。大内氏の正統は滅亡 | (1560)桶狭間の戦い |
謀反を起こした、陶 晴賢
陶 晴賢(すえはるかた)はもと隆房(たかふさ)といい、大内氏の重臣で、周防守護代を兼ねていました。
大内義隆は尼子晴久攻めに敗退してから次第に文弱になり、文治派の相良武任(さがらたけとう)を重用するようになりました。晴賢は相良武任と対立するようになり、同時に義隆とも不穏な空気が流れるようになります。相良武任を強制的に隠居に追い込んだり、暗殺しようとも試みますが失敗し、結果として義隆の信頼や大内家での立場を失ってしまいます。そしてついに挙兵し、山口の大内邸を攻撃したのでした。
大内氏正統断絶、その後。
陶 晴賢は義隆を自刃に追い込んだ後、大友家より大内家と血のつながった大友晴英(のち大内義長(おおうちよしなが)と改名/生母は大内義興の娘)を当主として迎え、また自身も隆房(たかふさ)から晴賢(はるかた)に改名しました。
毛利元就(もうりもとなり)は当初、晴賢に味方し、安芸国内で勢力を拡大していきましたが、徐々に対立。石見の吉見正頼が晴賢に叛旗を翻したのを期に訣別。有名な厳島の戦いで敗れた陶晴賢は敗死。傀儡当主である大内義長に求心力はなく、弘治3年(1557年)、ついに毛利軍は山口へ侵攻します。義長は大内氏の重臣内藤隆世の長門且山城へ敗走し、劣勢のまま戦いますが、毛利方より「内藤隆世の自刃と引きかえに義長を助命する」との条件を出され隆世は自刃。しかし義長も許されず長福院(今の功山寺)で自刃を強要され自害しました。これで名門大内氏は滅亡し、領土のほとんどを毛利元就が自身の領土としました。