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大内蹴鞠で感じる日本の伝統美

大内蹴鞠
体験!

ニューヨーク・タイムズ紙で
「2024年に行くべき52カ所」に選ばれた山口市。
室町時代、大内氏が嗜んだと推測される蹴鞠を
大内蹴鞠としてアレンジした体験プランで
室町風衣装に身を包み、
オリジナル鞠で蹴鞠を楽しんでいただきます。

大内蹴鞠の写真
大内蹴鞠の写真
大内蹴鞠の写真
大内蹴鞠の写真
畑谷友幸 撮影
募集内容のアイコン

募集内容

集合 大殿地域交流センター 山口市大殿大路120-4
解散 大殿地域交流センター 山口市大殿大路120-4
代金 お一人様 10,000円(おとな・こども同額)
募集人員 10名
最少催行人員 2名
含まれるもの 体験料、通訳ガイド料
申込締切 実施日の7日前まで

※雨天の場合は、中止となります。中止の場合は、開始時間の2時間前までに連絡致します。
※動きやすい服装と靴でご参加ください。

スケジュールのアイコン

体験スケジュール

受 付

下矢印

蹴鞠について動画レクチャー(約10分)

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衣装に着替え(約10分)

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蹴鞠体験(約30分)

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着替え(解散)

雅な心をつなぐ

大内蹴鞠

大内蹴鞠で感じる日本の伝統美

現代においても、その美しさと精神性は色あせることなく、私たちに日本の心を伝えてくれます。

風雅な心を育む蹴鞠で感じる
日本の伝統文化

蹴鞠は、千年以上の歴史を持つ日本の伝統文化の一つです。
貴族たちが心を一つにして楽しんだこの遊びは、技術だけでなく、礼儀作法や精神の調和が重要とされていました。
軽やかに鞠を蹴り続ける姿は、古の雅を感じさせるとともに、現代の私たちにも心の落ち着きをもたらしてくれます。

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時を超えて甦る、室町の風雅、大内蹴鞠

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中国から伝来し、平安時代に貴族の嗜みとして発展した蹴鞠は、室町時代には公家だけでなく武家にとっても必要な嗜みとされました。
明との貿易で得た財力を背景に栄華を誇り、幕府や朝廷、公家などとのつながりを重視していた西国一の守護大名である大内氏にとって、
蹴鞠は修練必須の技芸として、この地でも盛んに行われていたと推測されます。

蹴鞠の歴史

「貴族のたしなみ」から「武士のたしなみ」、そして「庶民の遊び」へ

参照冊子:蹴鞠のあたらしい『風を興す』 / 製作・著作 アトリエ蒼天

奈良時代

日本における蹴鞠の初めての記録は『日本書紀』皇極3年(644)の記事で、法興寺の槻の木の下で、のちの天智天皇である中大兄皇子や中臣鎌足らが行ったというものです。奈良時代の蹴鞠はチーム対抗競技的なものであったとも言われています。

平安時代

9世紀には仁明天皇の弟、忠良親王が天皇の命で蹴鞠に参加して鞠を落とすことがなかったというエピソードがあります。10世紀の『西宮記』の蹴鞠記事からわかることは、鞠数を追求することで数百回を超える記録が残されています。かの有名な、清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』といった文学作品の中にも、たびたび蹴鞠に関する話は登場します。平安後期になるとそれまで遊びごとだった蹴鞠が様式として確立。家の職業としても注目されるようになっていきました。

鎌倉時代

後鳥羽院は蹴鞠にも力を入れており、水無瀬離宮での蹴鞠において2千回を超えたという記録が残っています。また、後鳥羽院は身分や実力、年齢などに応じて履き物の色を定めた「韈の程品」という決め事を作りました。

室町時代

宮廷行事として不可欠なものとなっていた蹴鞠は、室町時代には「晴の鞠会」に足利義満といった室町将軍も同席するようになり、儀式的な面がさらに強化されていきました。九州探題だった今川了俊が書いた『了俊大草子』といった武家の故実書にも蹴鞠が取り上げられ、全国的に武士の嗜みの一つとして、とても重視されるようになりました。
  応仁の乱のあとの都では、「晴の鞠会」の様相が一変。蹴鞠の場所も禁中や将軍御所よりも公家の私邸で行われるようになり、蹴鞠は娯楽化していきました。地方から上洛した大名がスポンサーとなり、武家や公家が入り混じって蹴鞠と酒宴を楽しむなど、地方の人々へ蹴鞠が広がっていったと言われています。

江戸時代

蹴鞠愛好者が地域的にも身分的にも相当拡大します。井原西鶴の好色一代女『侍女の蹴鞠』図や仮名草子『竹斎』の挿絵など、庶民の生活を描いた書物にもたびたび登場しており、庶民の間では「蹴鞠十徳」といって、健康への効用や社会的なコミュニケーション効果、レクリエーション効果など、今の市民スポーツのような位置付けだったそうです。

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