室町幕府の第10代将軍であった足利義稙(あしかがよしたね)は重臣の細川氏のクーデターにより、京を追われてしまい、越前の朝倉氏を頼りますが、なかなか京に戻れません。そこで山口を拠点にする西国最大の大名である大内義興(おおうちよしおき)を頼ります。
山口に着いた義稙を大内義興は自らの館(山口市大殿大路)に招き、盛大な宴でもてなします。
その時の献立記録が「明応九年三月五日将軍御成雑掌注文」です。
『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』は明応9年3月5日(1500年、現在の4月)、大内氏館(山口市大殿大路、現龍福寺)にて、大内義興(第30代当主)が足利義稙(室町幕府第10代前将軍)をもてなした記録で、32膳(25献(こん)+2供御(くご)+4御台(おんだい)+御菓子)が出され、ひとつの御膳には3~5品の料理が並び、110品以上の料理名が確認できます。
食文化研究家、江後迪子さん監修のもと、この献立を可能な限り再現し、110品を超える料理の中から、湯田温泉の旅館・ホテルの料理人が中心となって選りすぐった御膳が「平成大内御膳」です。
献立記録としては中世最大の『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』
『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』は、32膳(25献+2供御+4御台+御菓子)、110品以上が記録されており、将軍のお膝元である京都では『畠山邸御成記』の20献が最大。越後(新潟)の上杉氏が足利利義を接待した際の宴で27献の記録があるものの、料理の記述はありません。
宴のその後・・・
大内義興は義稙を山口で約8年間かくまった後、京に攻めのぼり、再び義稙を将軍に復職させることに成功します。
義興は義稙の後見人として幕政の実権を握り、新たに山城(京都)を与えられるとともに、当時中国の明との貿易(日明貿易)を独占し、世界遺産である石見銀山の開発にも成功しました。
宴の器は土器?
当時の器には釉のかかった陶磁器もありましたが、宴の際には素焼きの土器(土師器皿)を使うのが一般的でした。この器は一度きりの飲食で使い捨てにされていたようで「かりそめ」の器であったようです。大内氏館跡から、京都の伝統的な手びねり(手づくね)の土師器皿が大量に出土しています。
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