重源上人(ちょうげんしょうにん)
平安時代末期から鎌倉時代にかけて活動した僧、俊乗房重源。源平の争乱で焼失した東大寺の再建を朝廷より命じられ、東大寺大観進職としてその指揮をとる。再建に必要な木材の調達の為、自らが佐波川上流の徳地を訪れ、木材の切り出しを行うと同時に、周防国の国司として政務も執行した。現在、山口市徳地には東大寺再建という国家的な大事業ゆかりの史跡が各所に残っている。
この特有の歴史文化と自然を生かした体験交流公園として「重源の郷」があり、紙漉きや木工体験などが出来る。
大内 義隆(おおうち よしたか)
1507年、第30代当主である大内義興の長男として生まれる。大陸貿易の利権を掌握し、六か国の守護として西国一の大名となった。しかし、1541年の尼子攻めに大敗後は、文人的生活にふけるようになる。学問・文芸をこよなく愛した義隆は、日本で初めてキリスト教の布教をサビエルに許可した。同時に、京都貴族の風向を好み、絢爛豪華な大内文化を開花させた。武事を顧みない義隆は、武断派の重臣たちとの対立が深まり、1551年遂に、陶隆房の謀反により長門深川に追い込まれ、大寧寺で自刃する。享年45歳。
菩提寺の龍福寺は、現在修復中。国指定建造物、重要文化財に指定。
辞世の句は「討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観」と伝わる。
聖フランシスコ・サビエル
フランシスコ・サビエルは、1549年に日本に上陸。1551年には、大内義隆に謁見し日本で最初に布教の許可を得た。フランシスコ・サビエルの来日400年を記念し、1952年、山口市に「山口サビエル記念聖堂」が建設される。初代の聖堂は、スペインのナバラ州パンプローナにあるザビエル城を模して建てられたもの(1980年、パンプローナ市は山口市と姉妹都市提携を結ぶ)で、市民に広く親しまれていた。
しかし、1991年突然の火災により建物が全焼しその姿を消した。その後、聖堂再建委員会が中心となり、二万人の寄付によって1998年に再建されたものが、現在の聖堂である。
雪舟(せっしゅう)
日本の水墨画の基礎を築いた画聖で、日本絵画史上に大きな功績を残した人物である。
1454年頃、大内氏の船で明(中国)に渡るため山口を訪れ、明において禅学・画技を修めて帰国。帰国後は、豊後大分ほか各地を遊歴した後山口に落ち着き、「雲谷庵」を拠点として数多くの傑作を残している。現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の画家のなかでも別格の評価を受けているといえる。
また、彼は作庭にも造詣が深く、常栄寺庭園「雪舟庭」を作ったと伝えられている。この庭園は、無染池(心字池)を有し、室町時代の枯山水石庭の典型的なもので簡素にして、豪放なたたずまいを見せている。
毛利 敬親(もうり たかちか)
幕末の長州藩主。村田清風などの有能な家臣団を登用して、藩政改革を推進した。
文久3年(1863)4月に、藩の主要機能である藩庁を、萩城より山陽路の山口へ移転させ、これにより幕府との戦いにも備えたといわれる。しばしば「そうせい候」(家臣の意見に対して異議を唱えることが無く、常に「うん、そうせい」と返答していたため)と呼ばれるが、家柄・身分にかかわらず有能な人材を登用し、彼らに政治の実務を任せることによって、下関戦争、禁門の変、四境戦争などの幕末の難局を乗り切った。
明治2年(1869)家督を元徳にゆずり、2年後廃藩置県の年に亡くなる。享年53才。
大村 益次郎(おおむら ますじろう)
近代的兵制の創設者。蘭学・医学に精通していたが、動乱の幕末に彼が最も力を発揮したのが兵学だった。1860年山口の普門寺で兵学を教授し、ついで明倫館兵学寮総官・教授として歩・騎・砲兵士官教育を行った。1866年の第二次長州征伐の際、その才能は遺憾なく発揮され、優れた戦術により幕府側をことごとく撃破する。その後1868年1月,戊辰戦争が起こると,討幕軍として上洛し、維新政府の軍政事務を担当。上野彰義隊討伐、奥羽・北越の平定作戦に携わった。 その功績が認められ、1869年には兵部大輔に就任するが、この年の9月、新制度に対する士族の不満が高まり、京都で刺客に襲われ重傷を負い、11月に没した。山口市鋳銭司にある鋳銭司郷土館には大村益次郎の遺品・遺墨が展示されており、東京の靖国神社参道には銅像(日本におけるヨーロッパ式銅像第一号)が建立されている。
井上 馨(いのうえ かおる)
湯田に生まれた幕末期の長州藩士。1863年、執政周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願し、伊藤博文・山尾庸三・井上勝・遠藤勤助とともに長州五傑の一人としてイギリスへ渡る。国力の違いを目の当たりにし、この留学が攘夷から開国論に転じるおおきなきっかけとなった。なおこの5名はロンドン大学において長州ファイブ(Choshu Five) として顕彰碑が建てられている。
また、長州藩の藩庁が萩から山口に移された際に、他県からの来訪者供応の迎賓館的役割をもつ料亭を開業。井上馨が「菜香亭」と命名する。
また、外務大臣や大蔵大臣などを歴任し、その後は元老として政財界の重要な地位を占めた。1915年没。
井上馨生誕の地は現在、井上公園・現高田公園として親しまれ銅像が建立されている。
種田 山頭火(たねだ さんとうか)
1882年(明治15年)山口県西佐波令村(現・山口県防府市大道)に生まれる。
自由律俳句(季語や五・七・五という俳句の約束事にとらわれず自由な俳句)を世に送り出した代表的な俳人の一人。世間から脱し、自由を愛し、酒を愛し、行脚の旅を続けながら俳句を作り続けた山頭火は、50歳を迎えたときに、肉体的に行乞の旅が困難となり、句友の援助を受けて小郡の小さな草庵に入る。そこを「其中庵(ごちゅうあん)」と命名し、7年間この地で生活を送った。後、湯田温泉に「風来居(ふうらいきょ)」も結庵。句碑は全国各地にあるが、よく通った湯田温泉界隈の高田公園、錦川通りにもある。
また酒を愛した山頭火にちなんだ山口の地酒「山頭火」は、独立行政法人・酒類総合研究所主催の「全国新酒鑑評会」で、平成14年・15年・18年に山口の地酒「山頭火」(金光酒造(株))が金賞を受賞。
中原 中也(なかはら ちゅうや)
明治40(1907)年4月29日、山口市湯田温泉に生まれる。10代の頃より文学に熱中し、詩作を始める。わずか30歳という若さでこの世を去るが、その短い生涯を詩に捧げ、350篇以上もの詩を残した。詩集は『山羊の歌』『在りし日の歌』の2冊を出版しただけだったが、彼の死後、その詩は年とともに評価を高め、日本の近代詩を代表する詩人として、現在も多くの読者を獲得している。また、フランスの詩人ランボーの詩の翻訳を手がけ、日本のランボーとも呼ばれている。中也の生家跡地には平成6年「中原中也記念館」が建設され、自筆の草稿や日記、遺品など貴重な資料が数多く所蔵されており、様々なテーマでの展示がおこなわれている。
嘉村 礒多(かむら いそた)
小説家、1897年(明治30年)吉敷郡仁保村(現在の山口市仁保)の裕福な農家に生まれる。
少年期より、寄宿舎の学校生活になじめず、徐々に人との交流を望まない性格となり、人間不信と離人癖が高じ、苦悩の日々を送る。結婚後に妻子を残し駆け落ちをするなど、その波乱万丈な人生を自虐的な私小説として発表していき注目を浴びた。自己のもつ醜悪な内面をことごとく告白し尽くそうとしたそれらの作品は「私小説の極北」と評された。上京後も郷里に対する思いは強く、随想「『上ケ山』の里」で「私は都会で死にたくない。異郷の土にこの骨を埋めてはならない。」と記述している。
現在生家は、【嘉村礒多生家 帰郷庵】としてスローライフ体験ができ、宿泊も出来る施設となっている。
小林 和作(こばやし わさく)
洋画家、秋穂町(現山口市秋穂)名誉町民。1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現山口市)に生まれる。15歳のとき上京して田中頼璋の門に入ったが、体を壊して帰山。京都市立絵画専門学校日本画科を卒業する。在学中に日本画から洋画を志し、鹿子木孟郎の画塾で学ぶ。その後上京して梅原龍三郎らに指導を受けた。1928年から29年まで渡欧。1934年、春陽会を脱会し独立美術協会会員となり、広島県尾道に移り住む。以後亡くなるまで40年間尾道で創作活動を続け、地方美術界に於いて指導的役割を果たした。1974年没、享年81歳。
現在、国民宿舎 海眺の宿あいお荘は『和作の部屋』を常設している。